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『百日草(百日告別)』

●『百日草(百日告別)』
 (監督:林書宇(トム・リン)/出演:林嘉欣(カリーナ・ラム)、石錦航/石頭(シー・チンハン)、柯佳嬿、馬志翔、張書豪、李千娜)

百日告別海報


発生した玉突き事故による大惨事によって最愛の人を失った男女がそれぞれ喪失感とどう向き合っていくか、供養をするか、そして如何にして前に進むかを描いた作品。

一人が失くしたのは妊娠中の妻。
一人が失くしたのは結婚式を控えた婚約者。

中華圏好きな人々にとって大好きな文字である「囍」がこんなにも辛い存在になってしまうとは……。



このふたりの男女が接触するのは法要のために山の上にある寺へ行った際のみ。
しかも誰の法要のために訪れたのかという程度の会話しかしていないのにも関わらず、たったそれだけの短かい出会いでお互いの心情が理解出来てしまうのは同じ境遇だから。
偶然にもふたりは同じような行為や行動をしており、自分の心の整理をしている最中の人達だからこその気持ちの通じ方をしてしまったのです。

起こった事故や葬儀そのものの描写は状況説明の、ごくごく短いシーン程度。
初七日、五七日(死後35日目)、七七日(死後49日目/満中陰・忌明け法要)そして百箇日こと卒哭忌、
つまり最後は泣き叫ぶのを終わりにする日で締めるというのを段階を経て描く構成となっています。
これらは何を意味するか。
法要とは愛すべき人に対しての供養と同時に、残された人々の悲しみとつらさを段階を経て克服し、心の整理をしていく区切りの儀式だということを本作は観客に対し明確に、しかも体感として理解させてしまったのです。

「儀式」として描かれているのは法要だけではなく、ふたつの「傷心旅行」が描かれています。
それぞれ亡き愛する人と寄り添いつつ、自分の心の中を整理するために旅に出るのですが、誰にでも思い当たるであろう「これをこなしてクリアしなければ自分は前に進めない」という思い込みをした行為をふたりともするのです。

例えば美食の旅のはずが前述したような自分に課した目標をクリアするだけとなり、味も何も感じず、まるで砂を噛むような食事をひたすらこなし続け、行った店に★印を付けていく。
ところが、どんなに美味しい料理店だとして絶対に五つ星にはならない。
それは欠けている残りひとつの星は愛する人と一緒でないと絶対に塗りつぶせないものだから。

もはやそういった自分に科した使命により、ひたすら食べ続ける姿は自殺にも似た行為とも受け取ることが出来、程度の差はあれど誰もが似た経験をしたことがあるであろう行動の数々が劇中で積み重なっていく――――。
観客である我々が思わず疑似体験をしてしまう辛さがスクリーンには広がっていたのでした。

愛する人の忘れ形見であるピアノを赤の他人にデリカシー無く触れられ、しかも雑に扱われ、「仲間」という名目の単なる外野でしかない人々に慰めの言葉をかけてもらうも、今の自分にとっては不必要な気遣いはピアノの音と共に酷いノイズにしかならないのです。

そんなピアノの存在が見るのも辛くて部屋の隅に隠してしまい、再び立ち上がって一生懸命になって取り出すというシーンがあるのですが、それは悲しい思いを乗り越え、再起するには並大抵の体力と精神力が必要というのを行動で表しており、素晴らしい比喩を見せてくれたものだ、と心から震えたのですが、このような言葉にはしていない演出が随所に散りばめられている『百日草』。

この映画と共に観る人それぞれが抱えている想いを思い出し噛み締めながら、ずっとずっと心の中で大切に温め続けていく、そんな作品です。
今生の別れは基本的に死となってしまいますが、身近な別れなどでも置き換える事はいくらでも可能なので、本作を観ると、どんな人でも何かしらの想いが生まれるのではないでしょうか。


因みにこの作品を撮った林書宇(トム・リン)監督は3年前に奥様を病気で亡くしています。
つまり本作は監督にとっての心の整理をする為の「儀式」の役割を果たしているのです。

《百日草の花言葉》
「不在の友を思う」 「遠い友を想う」
「別れた友への想い」 「絆」 「幸福」


そして 
「いつまでも変わらぬ心」

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